日々のあれこれ

日々の暮らしの中で気になったことを書いておきます。

ゲームと虫取りと蝶

 夏真っ盛りであるが、夕方以降暗くなりはじめると、秋の虫の声が聞こえだすようになってきた。

 真昼の時間帯の気温上昇は異常だが、早朝や夜間においては、ちゃんと季節の移り変わりが感じられるようで、少しホッとする。

 

 虫の声を、それと認識できるのは日本人とポリネシア人だけという話がある。なんでも虫の鳴き声は母音に近く、日本人やポリネシア人は母音を言語脳である左脳で処理するため、虫の鳴き声も、言語として認識されるという。

 一方で、西欧人や他のアジア人の脳は、母音と子音を別々に処理しているそうで、子音の方が左脳で言語として認識され、母音は右脳で非言語の音として処理されるとか。母音に近い虫の鳴き声は、雑音にしか聞こえないらしい。

 

 ポリネシア人については詳細は分からないが、日本人は、比較的、「虫愛ずる」国民ではあるだろう。虫取りは、子供の頃に程度の差こそあれ、経験していると思われる。

 しかし、日本以外では、虫取りをすることは、ほとんど無いらしいと聞いた。ゲームで虫取りや、虫集めが登場したとしても、海外ユーザーには理解できないという話をネット記事などで見かけたことがある。

 

 本当だろうか?

 

 虫といえばファーブル。ファーブルはフランス人だ。

 国語の教科書に載っていたヘルマン・ヘッセの『少年の日の思い出』。舞台はドイツだろう。

 『ムーミン』に出てきたヘムレンさんは、昆虫採集をしていたはずだ。あれは、一応、北欧が舞台と考えていいだろう。

 

 今、海外の某ネット箱庭ゲームを続けているのだが、 ちゃんと昆虫採集のクエストがある。蝶限定ではあるのだが。

 自分では遊んだことはないが、『ループ』とか『フラッター』とか、蝶を集めるゲームもあったはず。

 

 ただ、鈴虫とか、コオロギとか、キリギリスとか、蝉のような鳴く虫、虫の声を楽しむようなタイプは、海外ものでは出てこないのかもしれない。

原民喜の遺書

 洲之内徹のエッセイ『続 海辺の墓』には、原民喜、というか「原民喜の死んだ日」について書かれたくだりがある。

 正確な年月もおぼつかなくなるほど、原が亡くなってから随分と時が経った後に書かれたエッセイではあるが、その日のことは、洲之内の中にずっと記憶として残っていたようだ。

 その日、雑誌「群像」の座談会が椿山荘であって、洲之内以外の出席者の中に、佐々木基一がいた。佐々木基一は、原民喜の妻の実弟。つまり、洲之内側の視点では、仕事とはいえ言葉を交わした人物の義兄が、その日の夜に衝撃的な死を遂げた、ということになる。

 さらには、座談会の後、次の予定があると抜けた佐々木基一以外のメンバーと、銀座へ行き、何軒かハシゴした後に、新宿までタクシーに乗り、そこから国電に乗って西荻窪へ帰ったという。

 そして、翌朝になって、電車に乗ったところ、前の座席の男が読んでいる新聞の見出しに『新進作家原民喜氏自殺』という字が載っていることに気付いた、という顛末だ。

 

 原民喜は、西荻窪からの下り電車に、西荻窪を出てすぐのところで轢かれていたそうだ。

 

 ひょっとしたら、自分が乗って西荻窪で降りた電車が、その「運命の電車」だったのではないか? そんな疑念が、長らく洲之内の中に暗い記憶として残っていたのだろう。

 

 8月6日のネット記事に、原民喜佐藤春夫に宛てた遺書が見つかった、というものがあった。少なくとも自分が読んだ記事には、いつ見つかったものなのかは、明確には示されていなかった。が、記事中にもあったが、遺書の存在自体は以前から知られていたし、遺書を寄贈された大学の発表が基になっているようなので、あえて、8月6日に報道したのだろう。

 

 なぜ原民喜自死に至ったのか、は知るべくもない。

 が、『私は誰とも さりげなく別れて行きたいのです』と遺書に記した作家は、自身と「原爆」が結び付けられることに、疲れてしまったのかもしれない。

 

 「原爆」を経験し、そして生き残ってしまった表現者として、ある種の義務感はあっただろう。そして、そういう作品を作り続ける以外の道が限りなく狭い、ということも感じていたのではないだろうか?

 

 原民喜は、遠藤周作と親友だったらしい。

 原民喜が、「原爆」以外の、例えばコメディ小説を書きたくなったとしても、きっと発表はできなかっただろう。二面性を上手に使い分けて作家活動をしていた遠藤のことを、原はどう見ていたのだろうか?

 

 8月6日に遺書の件が報道されたのは、発信者、つまり新聞社にとっては、それがベストタイミングだったからだ。

 しかし、原自身は、「原爆」との繋がりという一点だけが、死後も強調され続けていることを、あの世で、どう感じているだろうか?

 そんな疑問がふと湧いてきてしまったのだが、今日は、もう1つの「原爆」の日だった。

 

 今日も暑い日になりそうだ。

 

 

再び、ウナギの話

 ウナギは、生まれた時点では性分化前の状態であり、成長の過程で雄か雌に分かれる“後天的な性決定”をする生き物と知られている。

 実際のところ、ウナギの性別は長らく謎であった。あの精神分析学で有名なジークムント・フロイトは当初ウナギを研究をしていたのだが、それは、雄のウナギを探すというものだった。しかし、『雄のウナギを見つけようとして、やみくもに多くのウナギを傷つけ、無理を重ねてきたが、解剖したウナギはすべて雌だった』という内容の手紙を残している。

 フロイトはウナギの研究でかなり苦戦したようだ。

 

 自然の河川においては、ウナギの性比は雌に偏っている場合が多いというデータがあるそうだ。岡山県児島湾・旭川において採取された430個体のうち、雌は88.7%、雄は4.6%、未分化7.7%だった。

 一方で、養殖場で育ったウナギでは、雄の方が多いという。高密度の環境で短期間で成長すると雄の割合が増加すると推定されているが、メカニズムはよく分かっていないらしい。

 

 ところが、最近「メスうなぎ」という言葉が登場してきた。養殖ウナギでありながら雌。餌に大豆イソフラボンを混ぜることで雌化を促す技術が開発され、約9割が雌になるように調整することが可能になったのだとか。

 

 わざわざ、雌を増やすのは、雌の方が、雄に比べて身が厚く、ふっくら柔らかいからというのが、関係者の説明だった。

 

 フロイトはウナギの夢を見てうなされたかもしれないが、日本人は、ことウナギに関しては、どこまでも貪欲になってしまうようで、ウナギにとっては悪夢のような存在かもしれない。

 日本は、ウナギ研究に関しては世界的にも有名らしいが、それは、日本人がウナギを食べるから、という点が大きい。食という産業に結び付いているからこそ、多額の研究費が動いている。

 

 その分、儲からない分野や、何か具体的に役に立つと思われない研究は、置き去りにされてしまう。そして、それは日本だけの傾向ではなくなってきているかもしれない。

 NASAは27日までに、トランプ政権による早期退職勧奨に応じて、全職員の20%超に当たる約4千人が退職を届け出たと発表した。少なくともトランプにとっては、宇宙開発分野は、あまり興味を引く研究ではないらしい。

 

ウナギの話

 近所のスーパーの鮮魚コーナーに「土用の丑の日」の掲示が出されていた。

 その割にウナギは並んでいなかったので、何でだろうか? と思ったら、ただの予告表示だった。今年の土用の丑の日は、7月19日と7月31日の2日。そう、2回あるのだ。

 

 今年は稚魚のシラスウナギが豊漁らしく、ちょっとは値下がりしてくれるかもしれない。もっとも、養殖には1年程度かかるので、ウナギを安く食べられる可能性があるのは来年になりそうだが。

 

 一方で、EUが6月に、資源量の減少を理由にニホンウナギの貿易を規制するよう提案している。11~12月のワシントン条約締約国会議で採択されれば輸入が制限され、価格が高騰するリスクもある。

 ウナギなど、日本以外では、あまり消費されないのではないかと思っていたが、そうでもないようだ。

 

 世界最古のウナギの養殖場はオーストラリア、しかも6600年前に作られたという。日本がまだ縄文時代だった頃だ。その養殖場は、2019年に「バジ・ビムの文化的景観」として世界遺産に登録された。

 アボリジニのグンディッジマラ族によって作られたその養殖場は、200年くらい前までは使われていたらしい。ここで養殖されていたのはオーストラリアウナギという品種で、ニホンウナギとは別のものらしい。ちなみに、全世界で、ウナギは19種類(食用は4種類)が知られている。

 

 欧州でも、英国ではウナギを食べるという話は聞いたことがあったが、あの、微妙なゼリー寄せの印象が強く、あまり親しまれてはいないのだと思っていた。

 実際には、英国以外でも、ウナギを食べる文化はあって、さらには、謎多き魚としてウナギの研究が長く続けられていたという歴史もあった。

 精神分析学で有名なフロイトは、ウナギの研究をしていたという。雄ウナギの精巣を探す仕事、これがフロイトの最初の論文だったのだ。

 ウナギの成魚は河口から外洋の産卵場へ移動し、人間の目につかない場所に行ってから、卵や精子が成熟し、生殖巣が発達する。つまり、川で捕まえられるウナギは、性別がはっきりしないということである。

 

 ウナギは現在でも、なお謎多き魚である。

 ウナギの産卵場所は、ある程度推測されているが、いまだに、ウナギが産卵する瞬間は捉えられていない。

 ウナギの完全養殖という試みも、現時点では、費用対効果の点で課題が山積みの状態であり、結局、心置きなくウナギを食べることができるようになるのは、まだまだ先の話のようだ。

ノストラダムスのジャムレシピ

 なんでも、7月5日に大災害が起きるという内容の漫画が原因となって、日本旅行のキャンセルが相次ぎ、搭乗者数が急減した影響で、米子‐香港間および徳島‐香港間の国際定期便が、8月いっぱいで運航を休止することが決まったという。

 

 ノストラダムスもビックリ、である。

 

 『1999年7の月、空から恐怖の大王が降ってくる』というフレーズは、ある一定以上の年齢の日本人なら、大概が聞き覚えがあるだろう。五島勉の【ノストラダムスの大予言】がベストセラーとなり、類似本やテレビ・雑誌の特集が世に溢れたものの、結局、1999年の7月に大王は現れず、あっさりブームは収束した。

 騒いでいたのは日本人だけだった、というのが本当だったのかは、よく分からないが、少なくとも、国際便が止まったという話は無かったと思う。

 

 当事者からすると冗談ではないだろうが、日本の漫画が香港で社会現象を起こしているというのが、なかなか面白い。

 中国からの旅行者が減ってくれると、少しは国内の混雑も減るだろうし、個人的には、悪くないと思ってしまう。

 

 ところで、ノストラダムスは、占星術師で医師で料理家で美容家でもあったという。【化粧品とジャム論】なる本を執筆していて、第一部には美容術・衛生法、第二部にジャムや菓子のレシピが収録されていたそうだ。

 ネットで調べたところ、実際に、ノストラダムスの残したレシピ通りにレモンジャムを作ったという記事が出てきた。実態は、ジャムというよりもレモンピールの砂糖漬けのような感じだが、普通に美味しかったようだ。

 かなり手間がかかるようなので、真似をする気にはならなかったが、機会があれば、食べてみたい。

撮影禁止は正しかった?

 国内の美術館や博物館は撮影禁止というのが普通である。

 一方で、海外の美術館や博物館では、比較的自由で、撮影も許可されているという。

 最近は、日本でも撮影が許可される企画展が増えてきていて、個人的にはありがたいと思うが、今後は、この流れも変わっていくかもしれない。

 

 伊・ウフィツィ美術館で、観光客が自撮り撮影中に18世紀の絵画を損傷する事件が発生した。破損したのは、アントン・ドメニコ・ガッビアーニが1695~1700年頃に制作した【トスカーナ公フェルディナンド・デ・メディチ肖像画】。

 ポーズを真似て自撮りをしようとして、バランスを崩し、肖像画の方へ倒れこんだようだ。

 

 また、伊・ヴェローナ市にあるパラッツォ・マッフェイ美術館では、今年の4月に、展示作品が来館者によって破壊され、しかもその来館者が逃走するという事故、いや事件が起こっている。 

 破壊された作品は、イタリア人アーティストのニコラ・ボッラの【ファン・ゴッホの椅子】(2006–07)。

 スワロフスキークリスタルを敷き詰めた「椅子」で、公開された防犯カメラの映像によると、来館者は「椅子」に座るふりをしながら、自撮りを試み、やはり、バランスを崩して「椅子」に座ってしまい、結果、作品は破壊されてしまった。

 

 ともに、作品を撮影しているというよりも、作品を利用した自撮りなのだ。

 自撮りというのは、自身の後ろにあるものとの距離感が分かりにくい状態で行われるので、事故も起きやすい。

 

 残念ながら、日本の撮影禁止が最適解だったのかもしれない。

見えないもの

 鴨居玲という画家を知ったのは、『美の巨人たち』で【1982年 私】が取り上げられた回を見た時だと思う。その後、どこでだったか、鴨居の恋人で写真家の富山栄美子氏が、鴨居の足跡を追ってパリやスペインを訪ねるというドキュメンタリーを見た記憶があるが、はっきりしない。

 

 『美の巨人たち』では、「排気ガスを引き込んだ車内で倒れているところを友人に発見された」と小林薫がナレーションしていたし、ドキュメンタリーの方でも、訪問したスペインの村で、女性カメラマンが「自殺だったの」と言って嗚咽するシーンがあった。

 しかし、日動画廊の長谷川智恵子氏が、それらを否定するような発言(「本当に死ぬ気ではなかったが、心臓が持たなかった」「自動車ではなく、薬で」)をしたりしているので、どうも、よく分からない。

 ただ、これも長谷川氏の弁ではあるのだが、良い絵が描けたり、画集ができたりして、「いい時」に自殺未遂を繰り返していたということで、自身の死のタイミングを演出しようとしていた向きはあるようだ。

 かなりの飲酒量で、狭心症を抱え、さらには癌の末期でもあったという話があって、「最後の個展」に向けて、作品として「死」を創り出そうとしていたのかもしれない。

 

 鴨居は、自画像を多数残しているが、わざと醜く描いているようなところがある。絵を美しく描いてしまうと、師匠である宮本三郎に寄り過ぎてしまって、好ましくないと考えていたらしいが、むしろナルシズムを拗らせた結果のような気がする。

 

 実際、めんどくさい人物だったようだ。

 そのくせ、長身でハンサムだったこともあり、所謂「人たらし」だったことも、確からしい。

 残された作品も、暗い絵が多く、「美しい絵」とは違うのにも関わらず、妙に惹かれる不思議なところがある。

 なんでも、「鴨居玲展」は人が入る企画展らしい。どこの美術館もやりたがる、と。

 画家の没後の区切りの良い年に企画展が行われることは、珍しくないことだが、5年刻みで企画展が開催される画家というのは、なかなかいない。

 

 見えないものを描く、と題された、没後40年の企画展が開催されている。

 この企画展にも出展されている【1982年 私】は、明らかにギュスターヴ・クールベの【画家のアトリエ】の影響を受けている。しかし、実物を見ると、クールベのような挑戦的な絵というより、「もう、描きたいものがみつからない」という、自己憐憫に見えてしまった。

 

 前述した長谷川氏によれば、鴨居は【最後の晩餐】を描きたかったのだそうで、そのための、机まで購入していたらしい。

 【最後の晩餐】は、翌日に迫る「死」とその後の「復活」の序章となる絵画。

 最後まで描き切る体力が残っていないと、画家自身には、分かってしまったのかもしれない。

 

 自己演出としての「死」。

 

 真相は分からない。ただ、ギャラリー内に並べられた、嘘くさい自画像の数々を前に、「残念なイケメン」という言葉が浮かんだ。

 「残念なイケメン」は、なぜか魅力的なのだ。