日々のあれこれ

日々の暮らしの中で気になったことを書いておきます。

サグラダ・ファミリア

 ガウディの代表作、サグラダ・ファミリア教会。

 完成するまで500年以上かかる、という説さえあったが、ついに主塔である「イエス・キリストの塔」が完成し、ガウディの没後100年の命日に合わせて、6月10日に、記念ミサが行われた。

 建設開始から140年以上経っており、ガウディ自身もその完成を見ることができなかったわけだが、全体が完成するまで、あと10年ほど、らしい。

 もっとも、正面の「栄光のファサード」から延びる大階段は、建設予定地に住宅や商店が建っているため、現時点で建設不可能になっている。どうも、バルセロナ市民には嫌われているらしく、建設予定地を住人が買い占めてしまったという経緯があるのだ。

 オーバーツーリズムの象徴にもなってしまっているので、かなり微妙な存在なのだ。

 

 聖書の「バベルの塔」は、神の怒りを買ってしまい、結果、人々の言葉はバラバラにされ、意思疎通ができないようになったことで、建設が中断し、未完に終わったという話だったと思うが、現代の「バベルの塔」は、住人と観光客の間に諍いを起こす要因の1つとなってしまった。

 

 あと10年。

 本当に完成するのだろうか?

 それとも、住人たちの猛反対で、未完のままとなるのか?

雨の歌

 今日で5月も終わり。明日からは6月である。

 梅雨になる前に台風がやってきて、しかも秋の進路を辿る予報が出ているが、やはり温暖化とやらの影響なのだろうか?

 それでも6月は梅雨、雨の季節という認識は、そうそう簡単に変えられないのも事実だったりする。

 雨の日には、雨の歌を聞きたい。

 そんなわけで、雨の歌を思いつくまま書き出してみようかと思う。

 

荒井由実『雨の街を』1973年、作詞:荒井由実/作曲:荒井由実

太田裕美『雨だれ』1974年、作詞:松本隆/作曲:筒美京平

太田裕美『九月の雨』1977年、作詞:松本隆/作曲:筒美京平

八神純子『みずいろの雨』1978年、作詞:三浦徳子/作曲:八神純子

村下孝蔵『春雨』1981年、作詞:村下孝蔵/作曲:村下孝蔵

稲垣潤一『雨のリグレット』1982年、作詞:湯川れい子/作曲:松尾一彦 

稲垣潤一『ドラマティック・レイン』1982年、作詞:秋元康/作曲:筒美京平

鈴木雄大『レイニー・サマー 』1983年、作詞:鈴木雄大/作曲:都倉俊一

中原めいこ『ふたりのRainy Day』1983年、作詞:中原めいこ/作曲:中原めいこ

小林麻美『雨音はショパンの調べ』1984年、作詞:松任谷由実/作曲:P.L.Giombini

大瀧詠一『雨のウェンズデイ』1985年、作詞:松本隆/作曲:大瀧詠一

飯島真理『セシールの雨傘』1985年、作詞:松本隆/作曲:飯島真理

有賀啓雄『雨色の僕と君』1987年、作詞:有賀啓雄/作曲:有賀啓雄

安部恭弘『サヨナラが聴こえる雨』1988年、作詞:松本一起/作曲:安部恭弘

鈴木康博『雨がノックしてる』1988年、作詞:秋元康/作曲:鈴木康博

久野かおり『雨に消えたリムジン』1989年、作詞:久野かおり/作曲:久野かおり

来生たかお『雨とピアノ』1989年、作詞:来生えつこ/作曲:来生たかお

Zabadak『Harvest Rain(豊穣の雨)』1990年、作詞:小峰公子/作曲:吉良知彦

安部恭弘『China Rain -In Christmas』1990年、作詞:康珍化/作曲:安部恭弘

谷川理恵『九月の雨』1991年、作詞:谷川理恵/作曲:上田知華

平松愛理『雨ニモ負ケズ』1991年、作詞:平松愛理/作曲:平松愛理

佐久間学『雨の遊園地』1992年、作詞:佐久間学・井上龍仁/作曲:佐久間学

有賀啓雄『RAIN DOLPHIN』1992年、作詞:有賀啓雄/作曲:有賀啓雄

有賀啓雄『僕の知らない雨が降る』1992年、作詞:有賀啓雄/作曲:有賀啓雄

熊谷幸子『みんな雨の中』1992年、作詞:マイカプロジェクト/作曲:熊谷幸子

熊谷幸子『レインダンス』1992年、作詞:マイカプロジェクト/作曲:熊谷幸子

谷川理恵『雨のエトランゼ』1992年、作詞:谷川理恵/作曲:上田知華

西脇唯『7月の雨なら』1993年、作詞:西脇唯/作曲:西脇唯

佐藤学『雨の降る夜』1993年、作詞:佐藤学/作曲:佐藤学

森川由加里『微熱雨』1993年、作詞:石川あゆ子、作曲:鈴木雄大

鈴木祥子『優しい雨』1993年、作詞:小泉今日子、作曲:鈴木祥子

熊谷幸子『雨のスクリーン』1995年、作詞:マイカプロジェクト/作曲:熊谷幸子

久野かおり『雨やどり』1996年、作詞:久野かおり/作曲:久野かおり

松たか子『桜の雨、いつか』2000年、作詞:松たか子/作曲:武部聡志

来生たかお『針の雨』2010年、作詞:来生えつこ/作曲:来生たかお

ヨルシカ『雨とカプチーノ』2019年、作詞:n-buna/作曲:n-buna

シド『慈雨のくちづけ』2021年、作詞:マオ/作曲:御恵明希

SpendyMily『雨のリズム』2021年、作詞:松永瀀/作曲:SpendyMily

 

 どうしても90年代の曲が多くなってしまう。最近の曲は、あまり知らないのだ。

 そして、調べていて、有賀啓雄が2023年に亡くなっていたことを知った。吉良知彦も2016年に亡くなっているし、上田知華も2021に亡くなった。

 自分が一番音楽を聴いていた頃に活躍していた人たちも、確実に、歳をとっているわけだが、それでも、まだ頑張ってくれているような気がしていたので、少しショックだった。

求められるもの

 5月26日の欧州株式市場で、フェラーリの株価が一時約8%安と急落した。同社初の完全EVモデル車のデザインが物議を醸している。

 4ドア・5人乗りのEV車「ルーチェ」。インテリア設計に、アップルの元デザイン責任者であるジョニー・アイブ氏が起用されている。5月25日に一般に情報が発表された「ルーチェ」は、従来のフェラーリらしい「スーパーカー」のイメージとはかなり異なるものだった。

 なんというか、Hondaのエンブレムが付けられていそうなデザインである。

 

 それにしても、例えば、TOYOTAがこんなデザインの車を発表したとしても、株価が急落するようなことにはならなかっただろう。TOYOTA車はデザインが残念であると散々貶されていることもあって、もはや、デザイン性はあまり求められていない、もしくは諦められているのだと思う。

 

 デザインがフェラーリらしくない、という理由で株価が急落するというのは、ある意味で、らしい話なのかもしれない。

 

 

消える建物と遺される建物

 昨年に話題になっていた旧香川県立体育館。その後どうなったのかと思っていたら、結局、今年4月に解体工事着工となったという。

 「体育館」としては失敗作だったらしい、とは聞いていたので(中央部の天井が低すぎて、バレーボールで天井にボールが当たってしまう等)、修復して使い続けていくという選択肢は無かったのだろうと推測されるが、「丹下健三設計」というネームバリューで、別用途を考える話は一応あったようだ。

 が、保存の話は、いまいち盛り上がらずに、消えることになった。

 

 一方で、箱木家住宅と旧古井家住宅が国宝に指定される見込みとなった。

 旧古井家住宅の方はよく知らないのだが、箱木家住宅の方は、以前に藤森センセと山口画伯の『日本建築集中講義』で読んだことがあったので、知っていた。

 その内容から、正直、これを国宝にするという流れになるとは想像だにしていなかった。箱木家は中世の地侍の家で、ダムの建設に伴って、昭和52年から54年にかけて、70メートル南東へ移築復元されているのだが、その際、元の建物とはだいぶ違った形になってしまっているらしいのだ。藤森センセは、その辺をはっきり言っちゃう方なので、「復元」に問題があることも、はっきり書かれていた。移築前の写真と模型と現在の形が違っていて、『ああ、復元って一体?!』の状態。それでも使われている部材の放射性炭素年代測定で14世紀頃のものということが分かったので、価値はあるということなのか。

 『日本建築集中講義』は2013年に出された本なので、もう10年以上前だが、その時点で、かなりカビ臭くなっていたようなので、使われなくなった家というのは、やっぱり保存が難しいのだろう。今、国宝に指定しておかないと、もう持たないと判断されたのかもしれない。文化財保護用燻蒸機「スーパーケムラー」が活躍してくれるのだろう。

絵の贈り物

 髙島野十郎という画家を知ったのは、たぶん、小林薫氏がナレーションを担当していた頃の『美の巨人たち』で取り上げられた回を見たのが最初だと思う。

 その後も、自分にとって、気になる画家であり続けたが、知られざる「孤高の画家」、他の画家とは距離を置き「独自性」を貫いた、という論調で語られることが多く、それに対して違和感を感じてもいた。

 むしろ、代表的な作品には、他の画家の影響が色濃く出ているような気がしていたのだ。

 

 昨年が没後50年だったということで、大規模な回顧展が行われている。距離的な関係で豊田か大阪での巡回展を待つことにしたので、没後51年になってしまったが、季節的にも大阪中之島美術館を選択したのは正解だった。

 桜が咲き揃い、天気もそこそこ良かったこともあって、最寄り駅のから美術館までの道は、快適な散歩道だった。

 

 そして、肝心の回顧展自体も素晴らしいものだった。

 たまたま季節が合っていたこともあるが、桜や菜の花やれんげ草といった春の絵は、懐かしさすら感じさせる風景画で、失われつつある日本の田舎がそこにはあった。

 

 有名な蝋燭の絵も数多く展示されていた。髙島野十郎を象徴するモチーフとされる蝋燭であるが、意外なことに、蠟燭の絵は個展で発表されたものではなく、親しい友人や知人に贈り物として手渡されたものだったらしい。

 蝋燭の絵はとても小さい。そして、ひとつとして同じものはない。

 これだけ多くの贈られた絵が残されていたというのも、それぞれの元で大切に扱われていたという証拠で、それは、髙島野十郎という画家が、決して人嫌いの孤独な人物ではなく、むしろ人との繋がりを大切にしていたからではないだろうか?

 

 図録を買ったら、サービスで菜の花の絵のトートバッグが貰えた。少しばかり得した気分になった。これも、絵の贈り物である。

アポロとアルテミスとオリオン

 アポロとアルテミスはギリシャ神話に登場する神で、ゼウスとレトの間に生まれた双子の兄妹である。

 先日、無事成功した「アルテミスⅡ」は、米が出資する有人宇宙飛行(月面着陸)計画「アルテミス」の第2弾である。プロジェクト名は、半世紀前の「アポロ計画」に由来しているのだろう。当初は、2024年までに「最初の女性を、次の男性を」月面に着陸させることを目標として、2019年5月に計画の詳細が発表されたのだが、予算や技術的な問題で遅れが出ている。

 とはいえ、やはり、「有人」であるからには、安全第一である。

 計画は今後も続くわけで、日本人宇宙飛行士の月面着陸に参加するプランもあるらしい。

 

 それにしても、宇宙船の名に「オリオン」というのは、問題ないのだろうか?

 オリオンは、アルテミスの恋人だが、アポロに騙されたアルテミスが射殺してしまったはず。不吉な名前を敢えて付けたのは、何か意図があるのだろうか?

 無事帰還したものの、トイレが故障したとか、トラブルも出ていたようなので、なんとなく気になってしまうのだった。

作品には罪は無い、とは言うけれど

 小学館の一連の問題に関して、少し考えたことがあるので、書いておく。

 小説家とか漫画家とか、そういった人たちの価値は、結局のところ、「面白い作品が創り出せるか」という点にあるのだと思う。作者自身の人格が優れているかどうかとかは、あまり意味が無いのだ。

 

 あまり意味は無い、とは思うが、全く関係しないかというと、そこが微妙だったりする。本当に関係しないのなら、作者名など付記する必要がないということになる。

 一部の作者不詳の作品以外は、「誰の」作品であるかという情報が最初から結び付いてくるし、作品の背景として、作者の生い立ちやら、その作品が制作されたきっかけやら、制作時期の作者の状況やらという付帯情報は、普通に語られる。

 昨今、中高生の頃に使用していた『国語便覧』を、大人が購入しているということが話題になっていたが、あれなどは、教科書に載っているような小説家、文豪と呼ばれる人物のこぼれ話の宝庫である。そして、碌でもない話のオンパレードである。

 

 聖人のような人格者だっていたかもしれないが、そういう小説家の話は印象に残らない。だから、小説家というのは社会不適合者ばかり、という錯覚すらある。

 社会的にエリート層であった夏目漱石や、軍関係者でもあった森鴎外などには、所謂、忖度もあったようだが、彼らもやっぱり問題有りな人物であったことは、今では割と知られるようになっている。

 

 今だったら、軒並み、炎上騒ぎになりそうである。たぶん、太宰治は、完全に潰されていただろうし、森鴎外は辞職を免れなかったかもしれない。

 教科書に載っていた『舞姫』など、当時でも騒ぎになったようではあるが、ある意味で、回転寿司屋で馬鹿な行動をした上に動画を晒して叩かれる中高生と、あまりレベル的に変わらない気すらする。

 

 「作品」は、やっぱり、作者の業を背負って生まれてくるという側面はあるのだと思う。その上で、どこまでが許容できるのか? 

 少なくとも、現代においては、未成年の被害者が存在する事案が関わってくるとなると、難しいだろう。

 

 「表現の自由」は無制限ではない。

 小学館、否、出版業界にとっては、不都合な事実ではあるだろうが、少なくとも、匿名性を悪用するやり方は通用しなくなっているし、「昔は良かった」では済まなくなっていることを、真剣に考える時期に来ていると思う。

 

 一方で、綺麗な道徳の教科書みたいな「作品」と、優等生ばかりの「作者」が並んでも、きっと、読者は満足できないのだから、本当に難しいと思う。